ワインの香り

 街のついでに友人へ届けものをしたかったので、地下鉄駅で受け渡しをすることにし、改札口で渡して、そのまま街に出ようと思った。「酢になってるかもしれないワインがあるけど要る?」と聞かれて「いる〜♬」と喜ぶと裸のワインをぶら下げて来た。

 改札口で、危ないなと思いながらワインを受け取り、そのままリックに入れようとしたらカレンダーの紙と輪ゴムをくれた。カレンダーを瓶に巻き付けてゴムを掛け持ち上げたとたんに瓶はスルリと滑り落ちた。赤く染まったコンクリートの床に唖然。辺りにフルボディの芳醇な香りが放たれた。

 「酢になってなかったじゃん!」それどころか熟成した香りに、「惜しかったぁ…」と残念に思う。

 

 駅務室に謝罪に行くと、汚した床には目もくれず「怪我してないか、ワインがマフラーに付いたと思う」としきりにこちらを心配してくれる。なんて親切な駅員さんだろう。失敗を咎めもぜずに手早く瓶を片付けてくれた。

 

 子供の頃、筋向いの旅館の女の子がラムネの瓶を持ったまま玄関で転んだ。普段、大酒飲みで近所の爪弾き者だった父親が血だらけの子供をバスタオルに包み、気狂いのように叫びながら診療所に走った。

 私はラムネを買うところもコンクリートの床に転んだところも、一部始終を見ていた。友だちの顔の傷は深く思春期になっても残り、彼女の顔を見るたびに、あの時の父親の痛みが蘇った。

 

 翌日、友人に電話し、「瓶は危ないから、買ったら何か巻いてもらって」と言う。あのワイン香りは駅員さんの優しさと共に心にインプットされましたね。

 

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